2011.03.26
仙台の友人より⑨
仙台の友人より⑨
仙台の友人<クボ>さんの 3/25の日記より転載。
「雄勝からのメッセージ」
今日、みなさんの心からの物資を届けに石巻市雄勝に行ってきました。
陸の孤島と化している状況は、聞いていたので
覚悟して運搬
すれ違うのが大変な真野峠を50分かけ雄勝へ
地震の影響で道が陥没したり、崩れていたり、砂利道と化した真野峠
でもここを通らなければ雄勝にはたどり着けません
この峠道もここ数日前にようやく一般の車が通れるようになった
道です。
山を下り始めて眼下に広がった光景
それは町ではありませんでした。
爆弾でも落とされたような瓦礫の山。
人々は自分の思い出の品や家財を探し
さまよっている。
力が抜けたように瓦礫の上に座り海を眺めている人
瓦礫の中家族を探している人
泥まみれの子供の服を抱き抱えている人
車を運転しながら震えてしまいました。
こんなことになっているなんて。
見慣れた町の姿は存在すらしてませんでした。
商工会があった場所を探し変わり果てた姿に
ただ愕然としました。
役所も、小学校も、中学校も、海洋センターのプールも
記憶にあった映像とはかけ離れ
恐怖しか感じませんでした。
大須小学校に行く道のりは、長く感じました。
ここに知り合いの家があったんだよな
ここはよりおさんの家だったところだよな
病院のまどもすべて壊れてしまった
車があちこちでひっくり返り
電柱は海側に倒れ
残った電柱には漁具がからみつき垂れ下っている
酷すぎる。
写真では感じられない
すさまじい匂いも所々で感じながら
避難場所の大須小学校へ
到着を待ちわびた人達が迎えてくれました。
茨城の青年部からの物資と
ご厚意で松本から復旧作業されている方から
燃料を頂いた事をつげると
本当に、本当にありがとう。
こんなところにまで来てくれてと。
言葉が何もです、涙がでてしまいました。
遅くなってすみません。
感謝なんかされる立場ではないんです。
同じ県に住んでいて
黙殺してしまっていたのでは
そんな気持ちでいっぱいなんです。
本当にごめんなさい。
避難所では、500名の方が
あまりの厳しい状況に
もっと人数は多いけど別の避難所に移る方も
しかし、土地を離れられない方々がいる限り
俺らが頑張らなければと青年部は立ち上がってます。
次のメンバーが2,3日中に来ます。
ほしいものは?と聞くと
男性、女性、子供用の下着、
ロウソク、燃料、運ぶための軽トラ
今はこれらが本当にほしいとのこと
次に必ず用意することを告げ
避難場所にいる商工会長と青年部に
頑張ってとつげ帰路につきました。
ただ、どうしても人を撮ることだけはできませんでした。
胸が張り裂けそうになり
自分達ができることってなんだろう?
それしか今の自分には考えられません。
平穏な生活に感謝を
そう思いながら、振り向くこともできず帰ってきました。
避難所にいたお年寄りに教えられました
津波の被害は引き潮でやられたんだ。
15Mの波が引く速さはすさまじい。
だから防波堤を見て帰ってほしい
すべて海に落ちているから。
最後に避難所で話している時に
電話がなりました。
「おっとうが見つかった。」
「よかったね。んでどごで」
「郵便局で」
これは遺体が見つかった連絡でした。
遺体が見つかるだけでよかったといっている
ことばにこれが現実なんだと。
今日、東京の小島さんより電話がありました。
前回の森瀬くんの記事をブログに載せたいと。
今、私たちが出来る事を1つずつやっていくことが大事だと思います。