関浩二のブログ「家いろいろ」BLOG

2011.04.28

仙台の友人より NO.30

仙台の友人より NO.30

 仙台の友人<クボ>さんの 4/26の日記の転載。
「心情」
東京の大学に通ういとこが、1週間のボランティアを終え
自分に会いに来ました。
1週間前、何も持たずに突然現れ、被災地の為に
ボランティアをしに来たと
その時、思わず怒ってしまいました。
軽いノリに思えたから。
持っている小さなテントと乾麺等の食糧、懐中電灯
寝袋、毛布を持たせ
こんなに必要なの?という彼に
いいから持ってけと預けました。
何度か連絡をもらい、自分の甘さを痛烈に感じたようです。
そして今日、夕方から少し話しこんでました。
避難所で生活している方の事や現場の状況等
少しはわかってくれたように思います。
彼が言っていました。
避難所に5歳くらいの女の子が現れたそうです。
すごい匂いで服もボロボロになっていたそうです。
その子が「服と下着をください」そう言ったそうです。
女性のボランティアが服を渡し
お風呂ね、少し離れたところにあるから入っていかない?と
聞いたそうです。
すると、地震のあった日からお風呂に入ってないんだけど
いそいでもどらないといけないからと言い
パパとママは?と聞くと
死んじゃったからいない。
どこの避難先に行くのか歩いて帰って行ったそうです。
いまだにそんな人がいることさえ信じられなかったと、彼は言ってました。
避難所にいる人に、あるテレビ局の人がインタビューしていたそうです。
「今必要な物は?」
避難した人が一言
「あんたらみたいな人が来ない、静かな休息がほしい」
それ以上何も聞けなかったと言ってました。
そんな彼の最後の疑問は、なぜこんなに不便なのに
ここに居続けなければならないのかということでした。
先日、南三陸の青年部仲間に連絡をしました。
今は隣の登米に避難しているそうです。
電話で話すと、瓦礫撤去で、ほとんど毎日南三陸へ通っているそうです。
自分が住んでいたところは、土地が下がり満潮時は海面下になってしまうそうです。
海門を閉めたことがあだとなり、川がせき止められ、川はあふれ容易に近づけない
状況になったことが一番大変だと言ってました。
京都に住む妹さんが、こっちに来たらとよく言うそうです。
でも、母親と祖父母がまだ見つからない
DNAの登録を行ってきたと。
見つかるまでは心の整理がつかない、そう言ってました。
「あんただけ逃げな」その行動を今も引きずっている。
あの時、引きずってでも車に乗せていれば。後悔ばかりがつのる。
せめて、亡きがらだけでも。
だから、ここを離れられないと言ってました。
今日テレビで、遺留品の洗濯がテレビで映しだされてました。
身体的な特徴でしか、男性なのか女性なのかわからない状況になっているそうです。
歯形等病院で保管している資料もすべて流され確認作業も難航している。
せめて、服や身につけているもので探しだされるようにとの行動です。
7名の確認ができたそうです。
でも、不明の遺体は1200体ほど今もあるのです。
どこかで区切りをつけたい。
でも、その区切りがつけられない
避難している方の心情です。
いつこんな生活を終えられるのか
精神的に追い込まれている
肌ですごく感じます。