関浩二のブログ「家いろいろ」BLOG

2011.04.20

仙台の友人より NO.23

仙台の友人より NO.23

 今日(4/20)、仙台の友人<クボ>さんの誕生日でした。おめでとうございます。
3/12が誕生日だった私は非常に複雑な気持ちですごしました。
クボさんの新たな歳がいい年でありますように。
では、<クボ>さんの4/18の日記の転載。
「3月11日 (雄勝)」

大震災の日
海水が引き始めた
引き方が緩やかだった
これなら、そんな大きな波では無いのだろうと思った
でも、海を眺めるといつもの目線の水平線でないことに気がつく
目線が上がるにつけ
逃げなければ
そう思い裏山を必死に駆け上がった。
波は岸壁のブロックにぶつかり
大きな波しぶきを上げたと思ったら
大量の海水がみるみると高くなり
町を飲み込む。
家が軋む音と共にゆっくりと流れていく
そして強烈な引き潮に
さらわれていく
周りを見渡せば50人程の人が海を眺めている
その中の7割以上が70歳以上の人
そして妊婦、赤ん坊
若い男性は作業をしていた3名と自分と同級生
夕刻になり2つのたき火を囲む
初めは70歳以上の方達も率先して薪を集めていたが
次々と座ったまま動かなくなる
若い人が夜が明けるまで薪をくべ続けた。
一晩中大きな波が続く
朝になり役所に非常用の物があることを思い出し
ペットボトルの水を6本と缶に入った味噌汁を持ち出し
また山道を登った。
持ってきた物資でも全員をこのままここに置いていては
いけないと思い
遠回りしながら役場へ皆を避難させる
建物と言っても寒さに耐えられず
役場の屋上で火を焚き
そこでまた夜を迎える
3日目の朝、高台にある避難所に人を動かすため
干潮時に移動を開始するため
大きく穴のあいた道路を修正し
移動を開始する
なんとか呼んだ車が3台到着し
妊婦や女性のお年より12名が移動
その後に高台の避難所は
受け入れを拒否
そのため5キロ程離れた小学校へと
残された方々は移動を開始しました。
その小学校では、高台の方達が避難してましたが
食糧を持ちよりそこから5日間なんとか生活を続けられたと。
笑いも交えながら、話す避難所の青年部に
何も言えなくなりました。
一緒に聞いていた仲間が言った一言が印象的でした。
自分は同じことができるだろうか?
同じことを感じているんだと。
強い人だなと思うことしかできない。
彼が前に話していたことを思い出す
自分たちは小さいころからここで暮らしている
だから災害が起きたらすることはなんとなく
肌で覚えている
そんな事を言っていたことを
最後に彼が言った言葉
今回、多くの方に自分たちは助けて頂いた。
被災して、1日目にほしいもの、2日目にほしいもの
3日目にほしいもの経験としてすべてわかった
全国のどこかで同じことがあったら
俺らはすぐ駆けつけるから
一番苦労している人にこう言われて
俺ももっと頑張らなければ嘘になる
そう感じました。
5万分の1の自分ですが
やれることを今はしっかりやっていこうと
そして、青年部で知り合えた仲間に
今は本当に感謝してます